昭和四十七年六月十日 朝の御理解
X御理解 第九十六節 「世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれ           いじゃ。人の口には戸が閉てられぬ。先を知っておらぬぞ。           いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立て           な。神が顔を洗うてやる。」
 金光様の御信心をさせて頂いて、もし信心の無い、又は信心の薄い本当な事を知っていない人が、神の顔にかかわる、神の事を口端にかける。信心の事をとやこう言うたり、信心しておる人の事を悪う言うたりするというのは、信心が無いのであるからまあ、いうなら当たり前、信心が薄いから当たり前。
 けれども信心の有難いという事が、段々わっかてくるから人が何と言うても笑うても、又悪口を言うても、又はどんな障害があっても、それを貫いていくのでございますから。私は、今日はね、折角信心をさせて頂くのでございますから、少しは信心の無い人達から悪口を言われる位な信心をしなければ、本当のおかげは受けられないだろうと思うですね。
 あっちは信心しござるけん仲々、人物がいいと、家庭も具合よういきよると言うてその言われるだけの信心じゃね、本当のおかげは受けられないです。
 私は今日ね、あるこれはまあ、誰でもあの人は仲々人物がええとか、やっぱ信心しなさるけんで商売も繁昌じゃろと言われるような人の事を今日はず-っと頂きよりましたら、『月形半平太』と頂いた。
 月形半平太というのは、仲々人気者ですよね。幕末の勿論あれは架空の人物でしょうけれども、いわゆる女にはもてる、人からは大変信用を受けてといったような、いうならば人気がええ訳ですよ。けれどもね、これは丁度お月様でいうならば、半月ですよ。半分のおかげが頂かれん。半分位でも頂いとりますから、ぼんやり明るい事は明るいです。けれども、何とはなしに歯痒い思いをなさる。今日私は、もう徹底ですね、金光様の御信心をするならね、一応は成程、あの人はそうにゃ笑われもしよった悪口も言われよんなはった。けれども、神が顔を洗うてやるというところまでおかげを頂かせてもらった暁にはね、わかる事なのですから、そこの過程を通らなければ絶対本当のおかげは受けられない。
 皆さんどうでしょうか。私はの事をそうにゃ悪う言う人もある。だからそれは実に有難い事なんです。だからそれは神様が満足して下さる程しの満月程しのおかげを頂かせて下さる過程なんだ。
 それは私がいつも申しますように、お道の信心はね、ある場合には、やはり非人情というような時があります。場合には非道徳だと思うような事もあります。けれども私はは普通で言う非人情じゃない。もう超人情でいかにゃでけん。いうなら、それを神情とこう言う。信心は例えば修身家のようなもんじゃない。道徳的なものじゃない 信心とはどこまでも、その道徳を超えたもの、超越したものなんだ。信心のない人やら薄い人やらがわかるはずがない。そういう過程を通らせて頂く時にはです、あげん信心しよって、あげん貧乏しござると、あげん信心しよってばってん、今ごろの原せんじゃないですけどね、隣組の旅行か何かの時に、あんたげは、いつも行かんから他が迷惑すると言われたといったような、もうそれ位のこつじゃなか。旅行だんに行くだんじゃなか。温泉にどん行くだんじゃなか。とてもとてもそげな時間があるなら神様に向かいたいという時ですからね。ですからやはり、あちらちもこりを積ませにゃこちらにもこりを積ませんけんで、ある人は金光様の信心しごさるじゃんしござらんじゃれわからん位な信心では、決しておかげは受けられません。
 いうならば神様が満足して下さる程しのおかげ、それは、月形半平太のおかげは受けられましょう。だからそげんとは、ちょっと何と言うでしょうか、信心を少しして道徳的ではありますから、人がよう言うです。信心しとる者は、やっぱああなからにゃならんと。だからそういう信心が最近はえらい流行っとるです。もう教団全体に。 私は、教団自体もです、他の宗教宗派から少し悪口言われるような、教団でなからねば伸びないと思うですねえ。
 金光教はそういう意味でです、実に円満な宗教だと言うて、他の例えば宗教を批判するような人達でも、金光教は案外、円満な宗教だというふうに申しますでしょうが そうじゃない、信心のない者やら、程度の低い信心の者やらわかるはずではない世界を通るのですから、ちったわからんはずなのです。金光様の御教えを行じていくとそういう事になるです。だから神の事をとやこう口端にかけられる位な信心をお互いひとつその過程に於いてはさせて頂いて、そして、そんなら顔を洗うてやる。成程、あの人は一家をあげて、それこそもう、まるきり金光様にぼうけちござるとじゃなかろうかと、あれ程信心しござったが、やっぱおかげ頂きなさったねえ。金光様ちゃ有難いなあ、やっぱ神様じゃなあとみんなが言うてくれるところまで、頂かなければうそなんです。だからね、これは金光様の御信心に少し打ち込んで、しかも一家をあげて打ち込んだらです、必ず、そういう非難が、それこそ浴びるようにある時代があるです、必ず。だからないなら、ああたの信心はまだほんなもんじゃない。半月しか頂かない時です。月形半平太です。人気はよか。やっぱ信心しござるけんと違うとゆうふうに言われるとはね、よかごとして悪か。まあ、あの人は神様、神様言うて人間づきあいをさっしゃれん。こっちは神様づきあいをしよるとじゃから。
 そういう過程がねなからにゃいけん。今日んごたる忙しか日に、さあ神様の何かと言や店閉めて行かっしゃる。やはりその位のところは通らにゃ本なおかげは受けられん。
 昨夜、私共の家内の父のお立ち日でしたから、夜の御祈念に併せて霊様へ御挨拶をさせて頂いた。昨日、丁度光昭が当番でしたから、光昭が奉仕させて頂いてました。 奉仕が終わらせて頂いて、みんなにお話をさせて頂く、ひと口ですけれども、私は昨日申しました。教師の資格ももたんですけれども、本当にあげなお話頂くなら、光昭先生と言わにゃおられんのと参拝してる方達に申した事でした。
 今日は、いうなら僕のおじいさん、母の父のお立ち日です、ですからお母さんやら愛子姉さんやらが一生懸命真心でおじいちゃんの好きなもの、これはもう絶対、私と家内が結婚した時から続けております事は、お立ち日に必ず、びわのお供えをいたします。亡くなります時に、びわをおいしい、おいしいと言うて頂いて亡くなった。
 びわがこの世で一番最後のおいしい食べ物だったという訳です。ですからどんなに高かっても、びわだけは必ずお供えさせて貰う。
 昨日、一昨日も、明日はそんな訳でびわを買いにやらせて頂くと家内がお届けしておりました。夕べも吉井の波多野さんなんかは、そんな事は全然しらないのに、もうかごいっぱいのびわのお供えを頂いた。というように神様の働き。霊様の働きをそこに感ずる訳ですけれども、丁度私が福岡で修行中の時分、もうそれこそ人から悪う言われたり笑われとる時分でございます、それこそ五円十円は金でもあわんならんような時代がございましたが、福岡で今日は鶴屋のお父さんのお立ち日だと、それで果物屋に買いに行きました。立派なものが出ておりますけれども、立派なものは買われませんし、ちぎれたようなのを皿に盛っちゃります、それを十円がつどん買うたっちゃ一皿きませんから、もう三つでも四つでもいい、とにかく、すみませんけどもと、確か十円がた分けてもらいました。そしたら、かえって、こうまけてもらいましてね、小さいお三宝に一台ある位に買わせて頂いて、それからお供えさせて頂いて、そして夜の御祈念に併せて、それこそ現在のような状態できれいなびわもお供え出来ませんけれども、又好きなもののひとつと言うても出来ん状態だけれども、まあ、真心でお供えさせて頂きましたが。
 私はその霊様の奉仕をさせて頂いたその晩から、霊様とお話が出来るようになったんですから。そういう事を、まあ私がいつもお話しますから皆さんも知っておいででしょうけれども、それこそその当時、もうこんな訳でございますから、本当に今日は好きなびわのひとつもお供えできませんけれどもと言うても、いいような時なのです 神様が無い事は知ってあるけんというような時。だからそういうような事をするから、例えばそれを信心の薄い者が聞いたっちゃ、そげんせんでんという事になる。
 例えばも、もう食べなければならないお米をお供えさせて頂いたり、もう家内が椛目の方へ帰っておりましてから、配給のメリケン粉をちった持って来てもらわにゃ、こっちんとばっかりじゃ、やっぱ気がねじゃから、持って帰って下さいと言う、メリケン粉をね、持って帰りよった途中で、ひょこっと心が変わってから、これは神様にお供えさせて頂こうと、お供えするなら、それは信心のある者でんそげんせんでんと悪口を言いますよね。そういう時代だったんですよ。
 だから、光昭もそんな事をよく知っとりますから、昨日御祈念させて頂きながら、霊様にこう申しましたと言うてから話ておるのです。
 昨日おじいさん、お母さんと愛子姉さんが一生懸命で、それこそ喜々として、いなり寿司を作りよんなさいました、と思うて、それを言葉に出して言おうと思うたら、感動してそれが言葉にならなかったというお話を致しました。もう霊様がそれを受けておられる。それを感動しておられるというようなものを感じたんですけれども、本当に真心ひとつでおかげを頂けれる道だという事。
 それで今日は、あそこへお花のお供えしとるとも、丁度頂きあわせたお花、白ゆりとあじさいがしてありますが、そのお花の事を頂きました。
 お互い信心によって、一家中の者が本気で清まろう、例えば白ゆりと言うのは、いよいよ清々しい、清らかな花と言われ、信心によって清めた上にも清め、改まった上にも改まり、研いた上にも研こうという精進をさせて頂いておるという事。
 しかも一家中がね、あじさいのように調和がとれる。あじさいの花には黄やら緑やら青やら赤やら、いろんな色がありましょう。沢山な花がひとつになっていて、てまりことも言う位ですから、それこそ手鞠のようにまん丸く円満にこれもひとえに信心のおかげだと、こういう訳なんです。
 そういうおかげの姿を、例えば霊様が聞かれて、又はご覧になって、お喜びにならないはずがない。私はおかげにはね、ここに例えば、人が悪口を言うたり、神の事を口端にかける、そんなら神様がもう眼のむきざんにおかげを下さるという事はないのです。これは絶対、時節というのが必ずあるのです。おかげを頂くと言うことは、いわゆる時節を待っておかげを受ける。その人その人によって違うです。
 同じ信心させて頂きよってもね、その人のめぐりの程度もあります。教祖様は場合にはね、その人の根に応じてともおおせられます。ですから問題は、神様が顔を洗うて下さる、その時節をね頂きとめさせて頂く事の為に、日頃信心しよらんとその頂きとめる事が出来のです。
 合楽に御神縁を頂いておられる方達はです、信心をはじめたなら一応はです、信心の無い人達から、笑われたり、又は悪口言われたり、それこそ神様の事をとやこう言われて、カ-ツとくるような事もならなければならない。今日私はそういうふうに皆さんに聞いて頂きたい。
 自分なあんまり円満すぎる。人から悪口言われよらん位な信心では、いわゆる円満なおかげは受けられない。月形半平太的なおかげは受けられても、お月様が半分、そして、それこそ、お芝居じゃ仲々よかとこですよね、春雨じゃ濡れてゆこうといったような事があっていいですけれども、すぐその後には、殺されねばならんという、短い運命で終わらねばならんでしょうが。
 だから月形半平太的な、只、人気がよかというだけじゃ出来ん。人気は悪かったってかんまん。と言うて顔を洗うてもろうた暁には、誰だって成程と合点がいくおかげを頂かして頂く為に、そんなら腹を立てなとおっしゃっておられます。
 如何に世の人が顔にかかわるような事を言うても、腹を立てな、だからそういう時に、いちいち腹を立てるという事は信心でない。感情でそれを受けていくという事はこれではいつまでたっても、おかげをキャッチする事が出来ない。
 時節が来ておかげを下さっても、それをキャッチする事が出来ない。その為にはです、どうでも家族が勢を揃えて信心しなければ駄目です。
 昨日のお花のように、一家中がてまりこのように、あじさいのようにいろいろなののがおります。けれども、その何とも言えん調和のとれた信心、しかも信心で家庭が固まっていくという生き方。
 私共椛目の時代には、随分笑われもし、悪口も言われて本当にいうなら、頭の下げどおしというところも通らせて頂きました。けれども、段々おかげを頂いて参りました。ですから、いうなら神様のひれい、いわば神の事を口端にかけられる、自分のこつならよかばってん、神様の事まで悪う言われる。これはやはり自分の事言われるよりも辛い思いがするけれども腹を立てなと。
 だからここで、今、日々御理解頂いておりますように、本当に御教えを頂かして貰うて、その事の何たるかという事をわからして貰うと、全ての事に御の字をつけれられる頂き方が出来るんだという事。悪口を言われておっても、それは神様のひれいだとわかると、その事に対してお礼が言えれるという事。
 人の口に戸は立てられぬ、先を知ってはおらんぞ。人が顔にかかるような事を言うても腹を立てな。ですから、そこんところで、いちいち、一回一回に、落第しておるような事ではだからいけない。それではよい信心生活が営まれるという事はない。
 もう椛目のはじめの頃が、草野の末木というところから、国武さんという方がお参りして見えました。その息子さんが、もう体全体にかさが出来ておる。もう、その人がくると臭いのですよね。そして、座った跡にはツ-がいっぱい落ちるんです。出来た上にも出来とるといった、顔から体から、そらもう、あらゆる温泉、あらゆる薬、もう随分迷うしこ迷うたけれどもよくならなかった。
 それでお母さんが熱心に信心しとりましたから、お坊さんの導きで参ってくるようになりましたが、小学校に行くようになって、行き帰り、母親が連れていってくれる そして末木から椛目へお礼に出て来て、そしてひと登りしてから、草野小学校へ迎えに行く訳です。ところがある日、迎えに行ったところが、子供達が輪をかいて何かえらいわ-、わ-言いよる。ところがその真ん中に自分方の息子がしゃごうとる。そして他の奴どんが石なげよる奴もおりゃぁ、カサパチというて悪口を言いよる。
 もう、わ-わ-言いよるところへ丁度行きあわせた。もうそれこそ人垣をおしなけてから、かきうだいてから、うち泣きながら椛目へ参ってきた。こんなじゅずない事があるじゃろか。こげな切ない事があるじゃろか。本当にカサですから臭いもんで学校では、友達が席にも一緒に並ばん。そしてみんなから、いじめられておるのを見て親としてやっぱりこげんじゅずない事はないと言うてお参りしてきたのを、私はすぐ神様へお取次させて頂きました。
 そしたらね、丁度立て札が立っておる真ん中に、その時分に末木の人達が「国武のふじしゃん、ああたが、そげな子供を椛目に連れて参ってからようなるごたるなら、末木の者はみんな参るばいの」と言われる位にあったんです。
 そういうような事が、それこそ子供連れて来る道筋の者は、末木じゅうの者はそれをしっている。椛目へ一生懸命、カサッパチの子供を抱いて参りよる事も皆んなが知っている。あんたげの子供がようなるごたるなら、末木の者は皆んな参るばいの、というよう位に、いうなら神様が宣伝して下さる。神の事を口端にかけるのも神のひれいと言う事がわかりますね。
 笑われよる時には、如何にも笑われよるごたるばってん、実を言うたら神様がこういう威力、こういう働き、こういう力がある神様ぞという事を宣伝して下さる為に、その国武さんは使われておったという事にまでなるでしょう。
 もう、そういう前後をする頃からでした。もう、大小便の中からもう、とにかく、大便でも小便でも血膿のごたるとが出るようになりました。それからもう、またたく間でした。きれ-いになりました。色が白うして、その後信心はやめましたけれども私共の勝彦が友達でした。それにあの十七、八の頃その人の話を聞きましたが、もうそれからこっちというのものは、ごがさ一つ出来ん。もうそれこそ顔はツルツルしたような、きれいな肌のおかげを頂きました。ですから、確かに神のひれいです。人から笑われるのも、人からとやこう言われる範囲が広ければ広いだけ、お役にたっている訳です。いうなら、それがひどければひどい程、こちらでいうなら、めぐりのお取り払いを頂いておる時です。
 ですから、あんたどんがねえごつ言うのとも、なあんとも言う事いらん。只、成程お礼を申しあげていけばよいと言う事になるのです。
 御信心を頂く程しの人達は、それぞれ深いめぐりをもっております。ですから、そのめぐりのお取り払いを頂いておる時だと思うたら、悪口も笑われる事も又、有難い 笑われる事によって、いよいよ信心は根のところへ入らして頂けれる。この期間が長ければ長い程、よい信心が身につくと言う事がだからいえます。
 そういう大変な事なのですから、そこんところを有難く大事に頂いて行くような信心にはじめて、神が顔を洗うてやるとおっしゃるようなおかげになってくるのじゃないでしょうか。
 成程、一時そういう事で末木から沢山なお参りがあるようになりましたよ。その当時、もう、末木で毎月共励会がある位あったです。というように、いわゆる神様の喧伝をさせて下さるような事なのですから、私はどうでも、ひとつ本気で、こと神様という時には、人から笑われても神様から笑われちゃならんという生き方をしなければいけないという事です。人から悪口言われても神様から笑われたり、神様に不快な思いをさせるような信心ではいけないという事。
 人はこげん言いよるですよ。まあ、お参りしなさんなとは言わんから、時々参る位でどうですか。そげん一家中で参らんでん誰か代表で参ったらよかでしょうもん、と言われりゃ、成程、それは合理的です。
 けれども、そういう時には、言われりゃ言われる程です、いよいよ神様のひれいと思わせて頂いて、いよいよ打って一丸になって清める事に、改まらして頂く事に、例えば昨日のお花じゃないですけれども、ゆりの花のような、清々しい清らかな心を目指して頂いて、しかも、家庭中が円満な、それぞれの色こそ違え、それが調和のとれた家庭生活が出来て行くようなおかげを頂いたら、そういう私は心の状態であってはじめて、神が顔をあらってやると言われるようなおかげをキャッチする事が出来る。 おかげには必ず時期というものがある。もう本当に時節というのがあります。
 だからその時節をね、待たせて頂く為に、その間を只今申しますように、笑われながらでもええ、本気で信心修行させて頂く、今こそ神のひれいをここに立てておるような時だと思わせて貰うて、それで腹を立てなとおっしゃるから、腹を立てなと言う事はいわゆるおかげの頂けないという心の事でしょう、いろいろな。
 そういう只有難い日々を本当に有難い、又は勿体ないという生活をさせて頂きたい その勿体ないという心が満足の心です。その勿体ないおかげを頂かせて頂く為に、今日のところの信心をいよいよわからせて頂かねばならないと思う。
 勿体ないと思う心が満足の心、本当に私のような者にこのようなおかげを頂いてという事ですから、勿体ない。皆さんが勿体ないという言葉をよく使いますけれども、勿体ないと本当に心から思う時は、その時がいよいよ満足の心です。そういう心が神様にいよいよ交じあうのです。
 わからせて頂けば頂く程、どういう中にあっても、勿体ないという心が湧いてくるのが信心です。いよいよ勿体ないおかげを頂く為に、いわゆる月形半平太的なおかげでは、いつまでたってもおかげが頂き足らんごとあります。おかげは受けまずけれども、それでは本当の信心生活になりませんものね。
それにはやはり、どうしても一家が勢を揃えて、しかも人の口には戸は立てられんのですから、人から悪口言われたり、笑われたりするような過程も、是非通らなければいけません。通らして頂いて、きたるべき時節を待たせて貰い、その時節を頂いた時こそはじめて神が顔を洗うてやるという程しのおかげを頂ける
 いよいよ神様も満足なら、私共も勿体ないという生活が出来る事になるのでございます。どうぞ。